cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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004 アンカレッジの熊

 はじめて洋書を買ったのはいつだったか?

 古いパスポートを引っぱり出して調べてみた。ぼくが大学院の2年生になるまえの春休み中の1987年3月4日。はじめての海外旅行のときだ。

 友人が、空港に迎えに来てくれる手筈になっていた。いっこうに姿をみせないことにどんどん不安が募っていった。空港の縦に長い通路を、重いスーツケースをかかえて、いったりきたりした。みかねた黒人の女性が声をかけてきた。「あなたさっきからなんでスーツケースを持ち上げて移動しているの? スーツケースの底にキャスターがついているから、床に降ろしてほらこうやって押していけばいいのよ」慈悲深い目をした彼女は、ぼくにたぶんそのようなことを話してくれているのだろう。言葉は理解できなくても彼女の動作でわかる。「キャスターが壊れている」その「キャスター」という単語が咄嗟にでてこなかった。あーうー。スーツケースの底を彼女にみせて、「ブロークン」と短く答えた。

 父が70年代に教職員組合のヨーロッパ音楽研修旅行に持って行ったそのおんぼろなスーツケースは、手荷物受け渡し場にたどりついたときは片方のキャスターが無惨に壊れていた。はやくもアメリカの洗礼を受けたのだ。この先の旅で、中身がはいっていないのに重いこのスーツケースを持ち上げながら移動するのかと思うと暗澹たる気持ちになった。

 友人がむこうで手配してくれた最安値の往復チケットは、アンカレッジ経由、ニューヨークで乗り換え、ボストンというルートだった。アンカレッジまで10数時間、そこからニューヨークまでおなじくらいの時間を要する旅だった。ニューヨークの空港内で、ボストン行きのバスターミナルがどこかわからずおろおろし、ちいさな双発のプロペラ機では、座席シート番号の印字が悪くて席がわからずおどおどし(みかねたケント・デリカットみたいな顔の優しいお兄さんが席をさがしてくれた)、「コーク」と言った筈なのにアテンダントのお姉さんにオレンジジュースを渡され……「まるでお子ちゃまだ」ボストンにつくまでにぼくは充分疲弊していた。

 待つこと2時間。空港にあらわれたのは、見知らぬ日本人の女の子だった。急用で来れなくなった?すぐるちゃん(ぼくの友人のなまえ)とルームシェアしているという彼女が女神にみえた。すぐるちゃんは当時、ボストン大学の外国人向け語学クラスの聴講生で、その秋に受験するMIT(エム・アイ・ティー。マサチューセッツ工科大学)のメディア・ラボにいくための準備をしていた。MIT、ボストン・コモン、ハービーハンコックタワー、チルドレンミュージアム……。いろんなところに連れて行ってもらい、いろいろご馳走になった。が、もうほとんど記憶にない。

 MITの隣にあるケンブリッジ大学の本屋さんではじめて洋書を買った。すぐるちゃんが入学したいMITの出版局からだされた、カール・ゲルストナーの『The Spirit of Colors  The Art of Karl Gerstner』という本だ。

 緊張しながら、黙ってレジに置いたその瞬間のことはいまでもはっきりおぼえている。「じぶんで何かをする」と、些細なことでもこころに残る。記憶というのはそんなものなのかもしれない。

 ところでアンカレッジ空港のホッキョクグマの剥製はいまもあの場所にあるのだろうか?

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/