cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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003 イエナ書店のこと

 いまだに残念に思っていることがある。
 銀座の晴海通り沿い、いまのクリスチャン・ディオールがある場所に「イエナ書店」という洋書店があった。ビルの1階と2階は、近藤書店という別の書店で、3階がイエナ書店だった。
 イエナ書店が店を閉じたのは2002年1月のことだ。いまからもう14年も前のことになる。気づいたときはすでにイエナは銀座から消えていた。最後にお別れが言えなかったことがいまでも悔やまれる。
 一昔前、つくばに住んでいたぼくは、東京に出てきたときは、美術館とギャラリーめぐりをして最後は必ずイエナに立ち寄った。
 ぼくはいまブックデザインの仕事をしているが、その頃は大学のグラフィックデザイン科の助手をしていた。
 マッキントッシュのコンピュータが出始めた頃で、グラフィックデザインの世界が劇的に変わっていく時代だった。文字組が「写植機」から「MAC」に、「活字・書体」が「FONT」というコトバに置き換わる端境期で、「デスクトップパブリッシング」「WYSIWYG(ウィジウィグ)」というコトバが耳新しい時代だった。
 イエナにはいち早く外国のデザイン誌や書籍が並べられ、そこで『Typography Now』という本をみつけたときは、衝撃的だった。コンピュータを使ってデザインされた見たこともない書体や図像で、その本は埋め尽くされていた。イエナに行くたびに大学の薄給で EMIGRE 誌 や DAVID CARSON がデザインした RAYGUN 誌を買うことが何よりの楽しみであり、新しいデザインを吸収することであった。

 『東京人』という雑誌の2004年、200号記念号の特集記事「東京からなくなったもの」のなかに、イラストレーターの安西水丸さんがイエナ書店のことを書いている。
 《東京からなくなったもので、今でもよく思い出すのが銀座にあった「イエナ書店」だ。大学を出てすぐに就職した広告代理店が銀座にあり、昼休みなどは毎日のように出かけていた。会社は間もなく築地に移ったが、それでも昼休みや退社後にはよく立ち寄った「イエナ」は御存知のように洋書専門の書店で、ここで知った海外のイラストレーターやグラフィックデザイナーは多い。ぼくにとっては何よりの学びの場であった。》
 その安西水丸さんも今はいない。

 イエナ書店が消えたあとも東京からデザインの洋書を取り扱う書店がどんどんなくなっている。2015年9月、青山にあった老舗の嶋田洋書が創業50年の幕を閉じた。
 デザインの洋書を手に入れるのは簡単だ。Amazonのサイトで検索して、店で売られているよりも安く、手に入れることができる。ひどいひとは、店頭で本の中身を確かめて、家に帰ってから Amazon でポチッとやる。これでは商売として立ちゆかないワケだ。ぼくはそれはしないことにしている。お店で見つけた素敵な本は、必ずそこで買うようにしている。もちろん手に入らない本は Amazon を利用する。けれども店頭で「出会った本」のほうが、思い入れが深いことも事実だ。

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/