cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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007 地球の歩き方の歩き方

 「じつは明日、急にボストンに戻らなければならなくなった」すぐるちゃんにそう言われた。金魚の糞みたいにひっついて、マンハッタンを「お上りさん」していたぼくはうろたえた。

 いまから思えばそれもすぐるちゃんの計画のひとつで、ぼくにひとりでマンハッタンを旅行させてあげたい、冒険させてあげたいという親心だった(ということにしておきます)。

 ぼくはすぐるちゃんに最後のお願いをした。シングルルームに部屋を変更したいということと、あと3日分の宿泊料をさきに精算したいということをフロントに伝えてほしいと。

 その夜の出来事。

 ドアが開かない。どうなってる??? すぐるちゃんがいなくなっていきなりのトラブルだ。

 「ドア イズ ブロークン?」フロントのひとが早口の英語でまくしたてたけれど、ポカンとしているぼくを見て諦めた。

 あごを上げて「俺に着いてこい」。そんなかんじで部屋の前まで来ると、いいかぁっ、鍵穴に鍵をさして(何度もいうけどそういう時代ね)、気合いを入れてまずドアに体当たり。そしてすぐにカギを引く。おれの通りにやってみろ。

 ドアが開いた。そんなのわからないよ。

 熱いお湯がでないのは諦めた。きっと魔法のコツがあるのだろうけど。「えいっつ!!!!」。ぼくは修験者のように冷たいシャワーを浴び続けた。

 ひとりで滞在するあとの3日、ぼくにはもういちど行きたい場所があった。

 すぐるちゃんとはバスに乗って近くまで行った。今度は地下鉄に乗って行ってみようと思った。 地下鉄は〝怖い〟イメージがあったので、びびりまくっていた。

“SUBWAY”…BRUCE DAVIDSON(ブルース・デヴィッドソン)が1980年にニューヨークの地下鉄を撮影した写真集。この写真集は3度、判型を変えている。これはファースト・エディション。ぼくが購入したのは、ワタリウム美術館が建つ前のギャラリー・ワタリのブックショップ。なんかバラックのような建物だった記憶がある。

 改札でトークンというコインを入れる方式で、意外と便利なことがわかった。ただ、どこからでればいいのかわからなくて、地上に上がったら自分がどこにいるのかまったくわからなくなった。

 冷静になれ!冷静になれ!あっそうだ!まずは公園だ!ユニオンスクエア。

 公園に入って、こころを落ち着かせることにした。 

 筑波から成田まで、同級生の女の子に車で送ってもらった。「もりちゃん、マンハッタンで『地球の歩き方』持って、キョロキョロしちゃ駄目だよ」。旅慣れたその子に固く言われていた。黄色い本をもってる日本人は、一発で狙われるらしい。

『地球の歩き方』…ダイヤモンド社が発行する海外旅行用の旅行ガイドブック。ぼくがニューヨークに最初に行った1987年当時、ほぼほぼ唯一の情報源はこの本だった。写っているのは2005、6年バージョン。

 ベンチに座って、ポケットのなかでクチャクチャになった地図をもそもそ取り出した。『地球の歩き方』から千切ったその地図に、その場所の印を入れてある。

 いまならそんなことしないよね。iPhone取り出して、検索すればすぐだ。雑誌のニューヨーク特集号を買えば、そんなとこまでっていうような場所まで載っている。

 『地球の歩き方』はいまも売れているのだろうか?

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/