cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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006 不思議の国のアリスはデカい

 ダブルベッドの下でぼくはめざめた。
 昨夜のすぐるちゃんには閉口した。力道山ばりの水平チョップを何度も腹にお見舞いされた。
 すぐるちゃん、以外と寝相が悪いのだ(笑)。

 MOMA、グッゲンハイム、フォークアートミュージアム、写真美術館、SoHo……。タイムズスクェアで安売りチケットを買ってコーラスラインを観たり、封切りされたばかりの『ブルーベルベッド』も観た。
 ぼくのために何軒かの書店にも連れていってくれた。すぐるちゃんはほんとに緻密に計画を立ててくれていた。
 最初にいったのは5番街にある RIZOLLI (リゾーリ)という書店だった。映画「恋に落ちて」でメリル・ストリープがデ・ニーロと運命的に出会う、ニューヨークでもっとも有名な老舗の本屋さんだった。って、ぼくはこの映画いまだに見ていないのだけれど(笑)。
 『不思議の国のアリス』のとても大きな判型の本をそこで見つけた。紫色のマーブル模様の見返し、3色刷りの文字組み、Barry Moser の木版の装画、何もかも美しい本だった。

『Alice’s Adventures in Wonderland』Lewis Carroll, Illustrated by Barry Moser 1982
アメリカを代表する版画家・イラストレーター、バリー・モーザーの木版挿絵をふんだんに使用したこの本は、1983年全米図書賞を受賞している。
『不思議の国のアリス』の第3章、ハツカネズミの身の上話にでてくるネズミの尻尾のかたちは、版によってちがう。モーザーの尻尾は、原著よりも優美なかたちをしている。

 ぼくはずっとふたつのことを気にしていた。貧乏学生なので軍資金に限りがあるということ、それと例のぼくのキャスターのぶっ壊れたトランク。この本を日本まで連れて帰るのは、なんというか〝死を意味する〟のだ。
 しげしげと眺めながらページをめくっていると、すぐるちゃんが後方左45度の角度からぼくに囁いた。
「この本、日本で売っていないと思うよ。一生、手にはいらないかも」。
 そしてもう一冊、目に入ってしまった。
『Rookledge’s INTERNATIONAL TYPEFINDER』
 エレメントの違いで欧文書体がグループわけされていて、瞬時に何の書体であるか検索することができる画期的な本だった。

『Rookledge’s INTERNATIONAL TYPEFINDER』1983
 ローマン体の小文字の“e”の横棒や大文字の“O”の円の傾きは古い時代の書体ほど傾いている、というような基本的な書体の形についてまったくわかっていなかったときに見つけた〝欧文書体検索本〟。   
 黄色い定規は、ポイントサイズのタイプゲージ。

 ああなんてことだ。こんな本、日本で絶対探せない。
 するとまたすぐるちゃんが後方左45度の角度から……。
「もうお願いだからやめてくれ」!!!!」。
「えいっ!!!!」Barry Moser の装画のもう1冊とあわせて、3冊購入した。
 ちなみにいま、AMAZONで検索すれば、一生手に入らないどころか、10分以内にポチることができる(笑)。

 本には1冊ずつそういうふうに物語がある。たとえ何十年前の出来事でも、棚からその本を引き出してページをめくった瞬間にその時の記憶が蘇る。中身は未来に、そして過去の出来事にぼくを連れて行ってくれる「タイムトラベルの装置」なのだ。

 『不思議の国のアリス』は1865年、ルイス・キャロルというペンネームのイギリスの数学者、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンによってかかれた18センチ×13センチのB6判くらいの小ぶりの本だ。ぼくが購入した本は22.5センチ×34.5センチの縦に長い変型サイズの大型本だ。
あっ! そういえばアリスは、小さくなったり、デカくなったりする。

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/