cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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魚よ、魚よ、我をいずこへ導き給う?

魚よ、魚よ、我をいずこへ導き給う?

「四月の魚」ってなに?  池澤夏樹著『異国の客』の一節をお届けします!

 

 

美しい春が来た。

 

シルエットばかりだった木の枝に芽が吹いて、若い緑が日に日に濃くなってゆく。昼間はずいぶん気温が上がるようになった。青い空に見とれることが少なくないが、風はまだ冷ややか。朝は六度、昼間は十五度という日々だ。

 

土曜日、家の近くを歩いていると、路面にチョークで魚の絵が描いてあった。白い大きなほっそりした魚と、赤いその半分くらいの少し太った魚が並んでいる。ペアという感じで、単純な線描がなかなかかわいい。何かの記号? 暗号?

 

見ていてもわからないので、無視して進むことにする。ところが、一〇メートルほど進むと同じものがまたあった。振り向いて比べてみても、たしかに先のと同じ魚二尾だ。これは何か連続性に意味のあることなのか。道路のその位置に面した家とは無関係なようだ。よく見ると魚は少しかすれている。何人かの足に踏まれた感じで、今日ではなく少し前に描かれたものらしい。

 

更に歩く。またある。その先にも。いったいどこまで続くのだろう?

 

これを見ながらぼくは二つの連想を抱いた。

 

一つは先に書いたアラゴーの子午線の記念碑。路面に埋め込まれた直径一二センチほどの円盤の列である。あれはパリの市街を縦断して、南北一〇キロほどの間に百三十五個だから、それぞれの間の平均距離はほぼ七五メートルだ。こちらの魚はあれよりは間隔が短いし、チョークという消えやすい素材に依っている。永遠を意図した記念碑ではない。これは éphémère な、はかないものだ。サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子さまに向かって地理学者がいう言葉。「花ははかないから」というあの言葉がこの魚にもあてはまる。チョークで描かれた魚もはかない。

 

もう一つは魚の記号論的な意味のこと。フランスというカトリック教徒の多い国にいることもあって、まずはキリスト教に思いが走る。ローマ帝国でまだキリスト教徒が弾圧されていたころ、魚はキリスト教徒たちの密かな記号だった。ギリシャ語で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の頭文字をつなぐとΙΧΘΥΣすなわち「魚」という言葉になる。こういう文字の偶然には神意が宿る。かくて魚は、十字架や小羊や生命の樹とならんで、キリスト教の象徴となった。十二弟子の中には漁師もいるし、『ヨハネ伝』の第二十一章によると、復活したキリストが弟子にふるまったのは魚とパンだった。また、キリストが十字架に架けられたのが金曜日だったので、今でも子供たちは学校で金曜日の給食に魚を食べている。これはもう宗教と離れた慣習のようなものだ。

 

でも、二十一世紀のフランスの小さな町に、そんな古代的な意味を負った魚が現れるだろうか。これは信徒たちの秘密の集会の場を示すような連続した印ではないか。まるでシェンキエヴィッチの小説『クォ・ヴァディス』の一場面のよう。魚よ、魚よ、我をいずこへ導き給う?

 

かくて魚を辿って歩くこと二〇〇メートル、いきなり路上に魚たちが氾濫した。白いのと赤いのと、どちらもが何十尾も群れている。その下に大きく Poisson d’Avril!(四月の魚)の文字。

 

やられた。「四月の魚」は英語で言うエイプリル・フールだ。そこでようやく気づいてみると、昨日の金曜日が四月一日だった。そして、魚があふれているのは高校の校門のところだった。

 

そうなると、この魚たちを路面に設置した(というのも大袈裟だが)企みの場面が想像できる。朝早く登校する仲間たちを釣り上げるために、たぶん木曜日の深夜、数名の高校生がこっそり集って、懐中電灯と二色のチョークを手に街路を徘徊し、餌として魚の絵を描いた。それに一日遅れでぼくがひっかかった。

 

路面に怪しいものがあって、これは何だろうと考えさせる点ではこの魚もアラゴーの記念碑と同じである。あれだっていきなり路上で遭遇した者には謎の円盤だ。これは何かと好奇心をそそられた者は道路を管理する市に問い合わせるだろう。彼は官僚機構の中を辿って、正しい答えに到達することができるだろうか。あの設置を認めただけでもパリの官僚たちはずいぶん融通が利くとぼくは感心したのだが。

 

魚を前にした新参の住民にわからないのは、これが今年の新規の企画なのか、あるいは毎年行われて慣習のようになっていることなのか、という点だ。来年のこの日、また路面を見ながら散歩してみよう。

 

『異国の客』池澤夏樹著 (「高校生、法王の死、シャルトルと須賀敦子」より)

 

 

【エッセー】異国の客

パリから南へ50km下った森の中の街フォンテーヌブロー。家族と共に移り住んだ著者が、日常の中でフランスの伝統的文化や芸術、現代の世相に触れながら思索を重ねる。

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