市場の大先輩、Hさんの話。
お父さん?
お父さんが戦争に行ったのはねぇ、私が5歳4カ月くらいのときだったから。70年以上もなってるさぁねー。顔も覚えていないんだけど。
隣近所のおばあさんなんかが話すのを聞いて、自分でお父さんのことを想像する。
うちのお父さん、とっても優しかった。背が高くて、お酒も飲まないし、働き者だったって。朝起きたら、すぐ畑に行きよったって。
オーダー(もっこ。運搬用の道具のことで、天秤棒の両端に稲藁などを網の目に編み、吊るし、肩にかけて荷物を運んだ)の片方には肥料にする肥だめを、もう一方のカゴに小さな私を入れて畑に行きよったって。帰りにはカンダバー(芋の葉)を入れて、片方にはまた私を入れて帰ってきたと母が言っていたさー。ふふふ。
働き者でごはんもたくさん食べたって。
お父さんも早くに父親を亡くして畑を持っていなかったから、あちこちの畑で働いていたみたい。
だから、母がね、いつもよく話しよったの。よく働く人は必ずたくさん食べるって。力がいるから。だから、ごはんはたくさん食べなさいって私もずっと言われていた。
お父さんがね、壕の中で亡くなったというのは聞いているんだけど、遺骨がない。爆風で飛ばされたのではなくて、米軍が投げ込んだガス弾で死んだんじゃないかねぇ。
出なさいと言われたときにみんなは出たけど、お父さんは出なかったらしいのよ。
喘息持ちだったそうだから、発作があったんじゃないかなぁって私は思ってる。壕の中は湿気もすごいさーねー。だから、出てこれなかったんじゃないかな。
壕で一緒だったという人に聞いて、あとからその壕まで遺骨を拾いにいったけどないわけ。爆風で飛ばされたのか、それともその地域の方が拾ってくれたのかはわからない。
何もないから、石を3つ拾ってきた。
毎年、慰霊の日には「平和の礎」に行く。あそこには名前があるさーねー。
もうそろそろ歩くのも大変になって「平和の礎」にも通えなくなるはずねぇって言ったら、息子たちが「大丈夫、車椅子に乗せて連れて行くから」って。うん、よかった。
『終わりと始まり 2.0』にも「平和の礎」が出てくる章がある。2017年6月14日にロンドンで起こったグレンフェル・タワー火災についての章。
増え続ける移民を地域に共生させるという趣旨でつくられた公営住宅で起きた火災の犠牲者は79名以上と確認されているが、犠牲者の正確な数や被害の全容は今もわかっていない。
住民はこの改装の際に使われた新たな外装材が火事を広げた原因だったと批判している。入居者のための安全対策よりも、高級住宅街の住民にとって見栄えのいい建物にするためだったと。
犠牲者の中には不法入国したために被害申告していない移民がいる可能性があり、最終的な死者は前述の数をはるかに越えるとも言われる。
名前を知られることのない犠牲者。
「平和の礎」にも名前のない人々がいる。
「○○の長男」、「○○の妻」と刻まれた人たち。生まれてすぐ、名前を与えられる前に死んでしまった赤ん坊もいたそうだ。
先日亡くなった元沖縄県知事大田昌秀が残した「平和の礎」の意味もそこにある。沖縄人も本土人もアメリカ人も朝鮮・台湾の出身者も、ともかくあの時期にあの島で戦闘で亡くなった人たちすべての名を調べ上げて記す。名前追求の努力はずっと続いている。ぼくはあの人々の名を一人ずつ読み上げたいと思う。なぜなら、残された者にはそれしかできないのだから。
仏教では火宅と言う。苦しみに満ちたこの世に住むのは火事になった家にいるのも同じ。人々はそれに気づかずに遊び呆けている。
火車という言葉も(ぼくはこの語を宮部みゆきの名作のタイトルで知った)。辞書によれば「生前悪事を犯した亡者を乗せて地獄に運ぶという、火の燃えている車」の意であるという。だが、亡くなったのは無垢の人々なのだ。人は自分の罪を思うことはできるが、他者の罪を問う資格は誰にもない。
仏教の救いの方に行こうとしているのではない。今の世の中、どちらを見ても炎が見える。―――『終わりと始まり 2.0』より
「慰霊の日は、Hさんがお父さんに会いにいく日なんだね」
「うん、あちらは覚えていないかもしれないけどね」
「そんなわけないよ。ずっと覚えているよ」
「そうだといいね」
「絶対、そうだよ」
「考えてもしょうがないさぁね」
「考えてもしょうがないって、何を?」
「みんな、お父さんがいるさ。自分たちはいないさ。人のこと羨ましがってもしょうがないさ」
涙で声を詰まらせるHさんが、いつもより小さく見えた。
イギリスの詩人ディラン・トマスに「ロンドンで一人の子供が火災で死んだのを悼むことに対する拒絶」という詩がある。
この詩の最後の行は「最初に死んだものの後に、又といふことはない」となっている(吉田健一訳)。
彼はドイツ軍の空襲で死んだ一人の子供を安易に悼むことを拒んだ。同じようにぼくはロンドンの火事で亡くなった青年を悼むことを拒み、六年前に石巻の大川小学校で亡くなった子供たちを悼むことを拒もうか、自らを火宅に住む者として。―――『終わりと始まり 2.0』より
Hさんも悼むことを拒んでいるのかもしれない。
家族にも市場の人たちにも愛されているHさんの人生は幸福に見える。
でも、73年間、なんで?どうして?という思いを彼女は持っていたのではないか。
なんで、お父さんは死なないといけなかった?
どうして、みんなと同じように壕から出なかった?
もし、お父さんが生きていたら?
どうすることもできない問いをずっと自分に投げかけてきたのではないか。
自分よりもずっと若い、顔のぼやけたお父さんの姿を思い出しながら。
どれだけ時間が経っても、どれだけ家族が増えても、お父さんを失った悲しみは小さくならない。
「平和の礎」に刻まれた241,468名が死んだのではない。一人ひとりが死んだのだ。
「最初に死んだものの後に、又といふことはない」
「平和の礎」に刻まれた名前は、Hさんや残された者たちの終わらない想いを鎮めてきたのだと思う。
お父さんが生きていたことを刻んでいるから。生きていた証。
グレンフェル・タワーの火災で命を落とした名前の残っていない人たち、世界中の無数の名前のない死者たち。
せめて、彼らの名前が刻まれた場所があってほしい。
生きていたのだから。人生があったのだから。
(宮里 綾羽)
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