2018825日 天気:曇り時々雨


 2014年7月、わたしはまだ栄町市場に座り始めたばかりだった。
 タンカーマンカー(お向かいさん)の金城さんは娘さんのはじめての出産のため、ドバイへ。1カ月の長い滞在だ。
 市場のことや商売のことを教えてくれる金城さんがいない上に、金城商店の店番もしなくてはいけない。商売人1年生のわたしは心細かった。
 そんな不安な7月が始まってすぐ、大きな台風が沖縄を直撃した。
 強い台風だったから、古いアパートに住んでいたわたしは実家に避難した。夜遅くに市場の様子を見に出掛けた店長はずぶ濡れで帰ってきて、こう言った。
「かなりひどい。小書店も被害が大きいかもしれない」
 翌朝、何事もなかったかのようにいつも以上に晴れた青空の下、市場の東口のアーケードは支えが壊れ、傾いている。小書店の前の通りの小さなアーケードもグチャグチャになって店の前に垂れ下がっていた。
 シャッターを開けて店の中が雨漏りしていないかすぐにでも確認したかったけれど、アーケードを支える鉄の骨組みが電線と絡み付いていて危険だ。
 屋根の上にもアーケードの骨組みが変形して乗っかっている。父の友人がボランティアで骨組みだった鉄を下に落とし、それをみんなで担いで運んだ。
 強い太陽の光が肌を射抜くようだ。眩暈がしそうなほどの暑さの中、重たい鉄が肩にのしかかる。タオルで何度、額を拭っても汗が噴き出してくる。
 片付けを終えて、今度は2軒隣のバー「ジャスミン」が水浸しになっていることがわかり、みんなで水を掃き出す。
 80歳になったばかりのかばん屋の謝花さんはだいぶ疲れているようだ。
「日陰で休んでいてください」
 と、椅子に腰掛けてもらう。謝花さんは肩を落として目を瞑っている。あぁ、ものすごく落ち込んでいるんだな。
 彼女の気落ちした姿を見て、わたしまで力が抜けていくようだった。
 はぁ、と溜め息をついてまた水を掃き出していると、外でキャーという黄色い声が上がった。
 外に出てみると、翁長さんが立っていた。
 当時、那覇市長だった翁長さんは、どの政治家よりも早く市場の様子を見に来てくれた。
「大丈夫ですか?大変でしたね」とひとりずつに声を掛ける。
 さっきまでへたり込んでいた謝花さんが翁長さんに近づいていった。
 翁長さんは謝花さんの話を頷きながら聞いている。
 いつの間にか小さな人だかりができた。みんな、翁長さんと握手したいのだ。
 わたしも汚れたTシャツにボサボサの髪のまま、みんなに紛れて握手をしてもらった。 
 翁長さんは力強く手を握り返してくれた。
「いつも新聞の連載、楽しみに読んでいますよ。大変だけど元気出してね」
 当時、わたしは新聞に小さなコラムを書いていた。忙しい市長がその小さなコラムを読んでくれていたことに驚き、小さな顔写真のわたしを覚えていてくれたことに感激した。
 翁長さんがこう言ってくれてるんだ、早く店を再開させるぞ!と、いつの間にか元気が出てきた。
 翁長さんが去った後は、みんながすごい人だねぇ、さすがだねぇと口々に話す。
 さっきまで疲労した空気で覆われていた通りに活気が戻った。みんなの顔も明るくなって作業もどんどん捗る。
 落ち込んでいた謝花さんもほうきを手に持って掃除を始めている。
「謝花さん、大丈夫?さっきは目もつむって落ち込んでるんだなぁって心配したんだよ」
「さっき?あぁ、あれは、昼寝してただけよー。元気出たさぁ」
 
 その台風の日から4年と1カ月。
 翁長沖縄県知事は亡くなられた。
 沖縄を照らし続けた太陽が落ちてしまったような喪失感。
 追い込んでしまった、闘わせてしまった、家族と過ごす時間は十分にあっただろうか?
 翁長さんのことを考えると、次から次へと無念な思いと後悔が頭の中で渦巻く。
 沖縄のためにありがとうございますと思うと同時に、沖縄のために、とはなんと重たい言葉だろうと苦しくなる。
 最近の翁長さんを見て、多くの県民が休んでほしいと思っていたはず。
 それでも、翁長さんは最後まで政治家であり続けた。
 その意味を考えたい、とやっと思えるようになってきた。
 沖縄のために、沖縄県民のために、最後まで政治家であり続けた人。
 翁長さんの言葉を聞くと、体の底から沸々と力が湧いてくる。
 翁長さんの姿を見ると、手を叩いて、声を出して、立ち上がりたくなる。
 台風被害で市場全体が落ち込んでいたときに、すっと現れてみんなを元気づけてくれたみたいに、いつだって県民に勇気と希望を与え続けてくれた。
 こんな政治家、わたしはほかに知らない。
 そして、そのようなリーダーを持てたことは沖縄県民としての誇りだ。
 翁長さんの後ろには何万、何十万の民衆がいる。それは、今も変わらない。
 
 政治家とわたしたちは違う世界に生きているんじゃない。
 わたしたちの見えないところで、わたしたちの目を欺く者を政治家とは呼べない。
 政治家とは、この世界をよりよくしていく人のことだ。
 翁長雄志さんは最後まで、悲しいくらい政治家だった。子や孫に語り継がれるべき、本物の政治家だった。
 翁長さんのご冥福を心よりお祈りいたします。ありがとうございました。


 
(宮里 綾羽)
 
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毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 翁長さんが県知事を辞任するというニュースがテレビで流れたのは、夕方のことだった。
 無理をしながらも知事を続けた翁長さんのこと、支えられていたご家族のことを考えると涙が溢れてきた。
 帰り道で一緒になったCOFFEE potohotoのさえちゃんと、翁長さんはきっとよくなるはずだよね、と話しながら歩いた。快復したら、今度はご家族とたくさん過ごしてほしいね、きっと大丈夫。
 沈黙がしばらく続いてから、「わたしたち一人ひとりが、翁長さんに少しずつ命をあげられたらいいのにね」と話した。
 さえちゃんも言った。「そう、2、3年ずつ翁長さんにあげたいよね」
 みんな、考えていることは同じだねと笑い合った。
 その日、家に帰ってからすぐに翁長さんが亡くなったことを知った。
 
 翌日、市場へ行くと、「残念だったね、もう何もやる気がでないさ」と金城さんが言った。謝花さんは、「まだ若いのにね」と頭を振った。
 市場の誰と会っても、こんなに言葉を交わさなかった日はなかった。目が合うと、ただ、頷き合った。
 お母様が栄町市場で商売をされていたこともあって、市場は翁長さんのホームだったし、翁長さんも市場から愛されていた。
 今年の2月の市場の新年会にもサプライズで登場して、那覇市歌を石原裕次郎風に歌い、カチャーシーを踊り、拍手喝采だったそうだ。
 歌も踊りも上手い!ワッター知事は最高ヤッサー。
 思い浮かぶのは、厳しい表情よりも明るい笑顔の堂々とした立ち姿。
 きっと、市場でお見掛けする姿がいつもそうだったから。本当に本当にかっこいい人だった。
店長と今年二月の栄町市場の新年会で(撮影:井筒秀明)
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
『本日の栄町市場と、旅する小書店』(ボーダーインク)。
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2018©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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