2018324日 天気:晴れ

 

『須賀敦子の旅路』

 はじめての常連さんというのは、どの商売をしていても特別ではないかと思う。
 小書店に座り始めたわたしの、最初の常連さんは金城さんという85歳の女性だ。
 はじめて会った日に本を選んでほしいと言われ、須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』を勧めた。
 その後、彼女は小書店にある須賀敦子をすべて読んだのだった。
 金城さんは、須賀敦子と自分が同じ年だということを喜んで、小書店へ来るたび、憧れの同級生の話をするように須賀敦子のことを口にした。
 
 戦前、栄町市場の場所にはひめゆり学徒隊で知られる沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校があった。
 戦時中、沖縄県立第一高等女学校の1年生だった金城さんは北部へ疎開し、ひめゆり学徒隊には参加しなかった。
 ひめゆり学徒隊は教師、学徒合わせて240名のうち、136名が死亡。ひめゆり学徒隊への動員以外で亡くなった人数を合わせると、226名にも上る。
 学び舎を共にした友人、先輩、教師をこれだけ一斉に失う喪失感はわたしには計り知れない。
 
 先日、調べ物をしていたら、偶然、ある記事を見つけた。
 2007年の朝日新聞。松山巖さんの須賀敦子についての連載。彼女の異質な経歴、才能について書かれた記事の中にこんな一文があった。「ひめゆり部隊は同世代だといっていた。」
 前後に関連のある文章もなく、たったそれだけの記述だったが、その一文に釘付けになり、何度も読み返した。
 須賀敦子の中に、「ひめゆり」があった。
 金城さんは、一方的に須賀敦子に憧憬する読者ではなかったのだ。
 同じ1929年に生まれた彼女たちは、共に学ぶことが好きで、本をよく読み、学生時代に戦争を経験した。
 当時の沖縄で女子が高校まで進学するということは、勉学が好きなだけではなく家が裕福でなければ通えなかったはずだ。
 金城さんは自分だけではなく、同じ教室で学んだ友人たちに須賀敦子を重ね合わせたのではないだろうか。英語が得意だった同級生、読書が好きなクラスメイトに。
 そして、須賀敦子も「ひめゆり」に想いを馳せていた。
 須賀敦子のことを話す金城さんは、おばあさんでもなく、妻でもなく、母親でもない。なんの役割も纏わない、ひとりの女性。
 結婚後も台所で本を読んでいたという金城さんが須賀敦子を読むとき、途中で学ぶことを諦めざるを得なかった少女が、再び学ぶ歓びに触れているようにわたしには思えるのだ。
 それぞれの人生は平坦ではなかった。ふたりは遠く離れた場所で人生を精一杯生きて、文学への情熱を持ち続けた。その同じ歳のふたりが年月を超え、文学を通して出会ったようにわたしには思えた。
 
 先週末、小書店に『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』が入荷された。一番に金城さんに電話をして知らせた。
 89歳になった今、病院以外の外出はできなくなり、小書店を訪れることもなくなった。「誰かに取りに行かせるから、わたしの分を一冊取って置いてね」
 
 わたしもこの本が届き、かじりつくように読んだ。
 彼女の人生に多くの苦難があったことは知っていたが、いつしか、そのような人生を自分の中で鎮めて紡ぎだす、孤高だけれど柔らかな女性だと錯覚していた。
 ある人に、そんな読み方は甘いわよ!須賀敦子はそんなもんじゃない!と言われたことがあった。
 その意味が『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』を読み終えた今、よくわかった。
 書くに至るまでの彼女の人生に起こった幸福と不幸、信仰への問い、何より彼女の持つ文学への情熱は、穏やかなさざ波なんかではなく、荒々しい嵐のようなものだったことに驚いた。
 著者は須賀敦子の足取りを丹念に追い、いつしか、彼女の思念へ近づいていく。その過程は、やがて、わたしたち読者自身の内面の旅になっていく。
 
 亡くなる一カ月前の出来事。入院生活で管を通して栄養補給をするほどの病状の中、須賀敦子は著者に電話でこう伝えたという。
 昨日はとってもよく眠れ、目が覚めたときに、自分はまだなにもはじめちゃいない、これからなんだ、と思った。「そう思えたってことがすごくうれしくて、あなたに伝えたかったの」。―――『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』より
 
 あれだけの素晴らしい作品を残して、まだ始まっていないと言った須賀敦子に勇気づけられるのはなぜだろう。
 理想とするものを創り出すまで妥協しない姿勢だろうか、心身ともに消耗しても再び前を向いて歩き出す強さだろうか。
 いや、孤独と対峙する姿だ。
 誰もが持つ孤独。人は孤独を紛らわす。ときには、孤独などないように振る舞う。
 でも、須賀敦子は向き合っていた。孤独に大きく揺さぶられながらも、切実に向き合い続けたその姿に勇気づけられるのだ。
『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』を読んだわたしは、表層だけの須賀敦子を越えて、もうひとつ向こうの須賀敦子に出会えた。確かに存在した須賀敦子に。
 
 昨日、金城さんが小書店までタクシーでいらっしゃった。本を読むのが待ち遠しくて、タクシーでやって来たのだった。降りることができないから本を持っていらっしゃいと言われ、タクシーまで『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』を届けた。
 数時間後、彼女から電話が来た。
「この本を読み始めて、とても懐かしい気持ちになっている。あなたとおしゃべりしたいなー。来週は、小書店まで行ってみるよ。勇気が出たから」

 
(宮里 綾羽)

 
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毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 今年の栄町市場は寒かった。
 久しぶりに風邪をひいたわたしに、COFFEE potohotoのさえちゃんが「むじ汁専門店 万富」へ連れて行ってくれた。
 はじめて食べたむじ汁は、店番で冷えた体に温かく染み渡り、泣きたくなるほど美味しかった。出汁がしっかりしているのに、優しい味。最近では品薄になっているターンム(田芋)の茎がたくさん入っている。柔らかいのにシャキッとする不思議な食感で癖になる。むじ汁のむじはそのターンムの茎のことだ。
 おいしい、、、と呟くと、店主の上原さんがむじ汁について丁寧に説明してくれた。
 
 出産祝いにつくられることは知っていたけれど、上原さんの話はさらに面白い。
「昔は、赤ちゃんが生まれた時にこーんな大きな鍋で作ったのよ。それを道行く人みんなに呼び掛けてね。みんなも大きな丼とお箸を持ってもらいにいく風習があったわけですよ。たくさん食べてもらえばもらうほど、この子が出世するって言ってね。沖縄の人は一人で食べないですしね。みんなで食べるでしょ?」
 そう話す上原さんの表情は生き生きとしていて美しい。肌なんて赤ちゃんみたいにピカピカだ。
 きっと、いつもむじ汁食べているからだ、とわたしが言う。
「それもあるけど、人間が大好きだからよ。いつも情報交換してね、楽しいわよー」
 栄町市場に来たら、ぜひ「むじ汁専門店 万富」でむじ汁を食べてほしい。
 体の中から美しくなれるでしょう。上原さんの美しさに一歩近づけるかも。ね。
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
『本日の栄町市場と、旅する小書店』(ボーダーインク)。
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2018©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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