201679日 天気:曇りときどき雷雨

 

『夏の朝の成層圏』

 あの夜、わたしたちはどの島を漂っていたのだろう。
 
 漆喰の壁に柔らかな照明の光がゆらゆらと揺れる。
 薄暗い店内が明るく思えるのは、南国らしい植物が天井まで伸びているからだろうか。客はみな、冷えたカクテルやビールを手にして、目の前にいる恋人や友人と微笑みながら語り合う。
 小麦色の肌をした女性が店の真ん中に用意されたマイクの前に立つ。それに続くようにして、ギターを持った男性がマイクの後ろの椅子に腰掛けた。
 彼女が歌い始めると、まだ少し騒がしかった店内が静寂に包まれた。
 歌声が響いているのに静寂とはおかしな気がするが、不思議な静けさがカフェに広がっていった。カリブやクレタ島、ミクロネシアの歌がわたしたちの頬を撫でていく。
 今晩、カフェにいたすべての人々が彼女の歌とともに旅をしているようだった。
 行ったことのない場所なのに、目を閉じると原初の風景が浮かんでくる。島の風景。
 宇宙の中心に浮かんでいるような島の風景。
 
「時々ぼくは宇宙を裏返して考える」と彼は続けた、「つまりぼくのお腹の真中、それこそ内臓の中心を宇宙の中心として、全体をひっくりかえすんだ。そうすると、この世界はぼくの皮膚によってくるまれた球状の空間で、皮膚は無論内側が表になる。きみもこの島も太平洋も地球も太陽系も、最遠点まで含めた宇宙全体がこの球状の空間に入っている。遠い宇宙の果はこの球の中心になる。きみは、ミランダ、ぼくに一番近いから、この球の内側に寝そべっているんだ。だからきみの肌はぼくに触れている。そしてこの皮膚の外側は無限遠点までずっとぼくの内臓によって埋めつくされている。ぼくの内臓がきみたち全部を虚無から護り、宇宙の秩序を維持している。すべてのものはしかるべき位置にある。だから、きみはこのまま安心して眠っていいんだよ」―――『夏の朝の成層圏』より
 
 わたしたちの日常はあまりに煩雑だ。本来の姿であるはずの「生」はその中に埋もれ、簡単には取り出せない。忘れていることさえある。
 ときには、わざわざ生きる目的を設定したりもする。
 何かを成し遂げることであったり、誰かの役に立つことであったり、後世に名を残すことであったり。もちろん、それを否定するわけではないし立派だと思う反面、ひたすら「生」を全うしたいとも思うのだ。いや、全うという言葉もなんだか嫌らしい。
 ただ、生きること。
『夏の朝の成層圏』は南の島に漂着した青年の話だ。彼は文明と切り離された自然の中で生きるための知恵を持ち、思考し、「生」そのものに生きる目的を見出していく。
 
 彼の「生」が羨ましいと思った。瑞々しい本来の姿。わたしは、命と向き合う生活をあまりに遠くに置いてきてしまった。
 本能や野生とは無縁で、食べるために魚を捕まえることもしない。精霊と話すこともない。
 自分の内臓が宇宙の中心だと思えるのは、自然と向き合うことができた人間だけなのだろう。自然と向き合えたとき、その厳しさの前で自分がいかに小さなものであるかを思い知らされると同時に、宇宙を包括するほどの存在だとも思えるのだろうか。
 やっぱり、わたしは彼が羨ましい。
 
 目を開けると、わたしはまだカフェにいた。
 気持ちよくぼんやりとした頭で、あの青年はその後、どのように生きるのだろうと考えた。島で生き続けるのか、文明に戻っていくのか。
 文明から離れて島を漂う不安と、それを上回る清々しさ。
 どちらにせよ、彼は生きるのだろう。
 透明で壮麗な島々の歌が広がっていくのが見えるようだ。あの夜、カフェは大きな海か小宇宙に浮かぶ小さな船のようだった。


 
(宮里 綾羽)
 
夏の朝の成層圏
池澤夏樹著 1984年 中央公論社
配信申し込みはこちら
毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 市場に座るようになり、花をよく買うようになった。
 春には大きな桜を。夏には紫陽花、寒いときには椿を買う。季節の花が店頭に並ぶのを見ていると、こちらの気分も華やぐ。
 いつもお世話になっている花屋の野国さんと立ち話。
「本は腐れないからいいよねー。花は生ものだから大変よー」
 特に夏場は大変らしい。
「今日、おもしろい花が入ってるよ」
 甘い言葉に誘われて店を覗くと、いつも見たことのない可愛らしい花が置いてある。そして、ついつい買ってしまうのだ。
「はい、これも持っていって」ともらったのは、たくさんのカサブランカ。
 肉も魚も野菜もだけど、生ものはずっと店には置いておけない。
 市場のシーブン(おまけ)ってちょっと切ないな、と呟くわたしに市場の先輩は言う。
「気持ちよ、気持ち。昔からずーっとあること。スーパーにもポイントがあるでしょう? それの元祖よ元祖。市場は1円とか5円とかも取らないでしょ? これもシーブンだよ。スーパーって1円も取るでしょ? びっくりするよね」
 そっか、これが市場の常識なのか。商売の知恵なのか。
 よし、有難くいただこう。
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
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2016©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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