20151226日 天気:晴れときどき曇り

 

『人生の広場』

 ホテルから歩いて夜のルーブル美術館へ向かう。あの有名なガラスのピラミッドがある広場。裏手から敷地へ入ると、バイオリンの音色が聞こえてきた。堂々とした石造りの建物と幾重にも重なったバイオリンの音が釣り合いすぎて、少し気味が悪い。
 アーチ型の門口からあちら側へ抜けることができるみたいだ。
 トンネルのような通路に足を踏み入れると、音が大きく響きだす。立ち止まり、演奏者を探す。バイオリンを持つ男のシルエットだけが見えた。暗くて顔は見えないが、細い体を揺らしながら演奏は続く。
 バイオリンの音色が体の奥に重たく響く。あまりに重厚で私の日常にはない音。今がどの時代なのかわからなくなる。ポップで軽い私の生きる場所。
 バイオリンの音色には私など、民衆など見えていないようだった。そんなものは踏みつぶしてしまえばいいとでも言うような、恐ろしささえ感じる重たく暗い音。
 パリの最初の夜。
 
人生の広場』の冒頭で、友人のトマスがぼくに尋ねる。「人生に曲がり角のような時があるときみは考えるか?」
 彼は順調に歩んできた人生の半ばに仕事から身を引き、半年ほど伯母の遺産でパリに滞在する。異邦人としてのパリは彼の人生にはカウントされない時間で、その間にひたすら人間を観察したという。人を疑って生きる金持ちの老女、三十年は連れ添ったと見える夫婦が言葉を交わさずに食事を終え満足する様子、二百年以上も前に行われた実験を再現しようと集まる学生たち。
 パリで暮らす人々を観察したトマスは再び彼の人生に戻っていく。
 
 パリに滞在した数日間は、ずっと浮遊しているようだった。旅行者というだけではなく、この街がそうさせるのだと思った。上から迫ってくるような大きな石の建物たち。瀟洒なアパルトマンには私が一生見ることのできないだろう華やかでおぞましい世界がある。想像すると静かに興奮した。
 シャンゼリゼ通りは煌めき、車のライトさえも綺麗だった。その通りに面した子供服店で働く知人を訪ねると、若いマダムが人形のように美しい顔をした子供を連れて買い物をしている。
 ハンカチ一枚買うのが精一杯の私と対照的に、若いマダムは両手いっぱいに紙袋を持っている。ハンカチには大袈裟すぎるラッピングをしている間、温かな紅茶を飲みながら店員と談笑した。何気ない、贅沢な時間。
 店を出ると、ひとりの男が近づいてきた。物乞いだった。凍傷なのか、指が何本もちぎれていた。男は残った指を強調するように私に向かって手を差し出す。
 これがパリなんだとショックを受けた。
 ここではくっきりとラインが引かれている。こちらがあなた、そっちはあなた、と。
 そのどこにも属さない私はやっぱり浮遊している。それはきっと、トマスの観察するだけの、人生にカウントされない時間に少し似ていた。
 
「わかった。パリがきみにとって人生の広場だったというのはわかった。それできみは広場からどの道を選んで歩き出したんだ?」
「そうだな。以前とあまり変わらなかったかもしれない。だが、大袈裟な言いかたをしてみれば、パリで人間というものの奥行きを知ったかとも思う。それ以前、新聞をやっていた頃までは私は思想を見て、言葉を見て、人間を見なかった。パリの半年は私の人生にとってカウントされない時間で、その間に私はひたすら他人を観察した。その分だけ人間を知るようになった。広場は充分役に立ったよ、私にとって」
———人生の広場』より
 
 人間を見る。すべての人々が思想や言葉ではなく、人間を見れたらどんなによいだろう。誰ひとり同じ人間なんていないと知れたら。
 そうできたら、自分でない人間を尊重して、許容して、憎しみから解放されることだってあるかもしれない。
 私とあなたが違うことは恐怖ではないし、当たり前だけど悪じゃない。
 すべての人々がトマスのように立ち止まり、人間の奥行きを知れたら、もっと自由になれるんだろう。もちろん、私も。
 
 美術館に通い、カフェへ出掛け、美しい町並みを飽きることなく歩いた。キラキラと輝くパリを思い出すとき、今でも心が華やぐ。
 でも、次の瞬間、物乞いの男の顔を必ず思い出すのだ。
 今なら、私は彼の目をまっすぐ見れるのに。
 話し掛けてきた彼に足がすくんだ自分を今でも恥ずかしく思う。

 
 
(宮里 綾羽)

 
人生の広場
池澤夏樹2007年 新潮社
 
配信申し込みはこちら
毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 年の瀬。いつもは眠っているように静かな栄町市場も人通りが増え、客の流れも早くなる。
 年末に近づくにつれ、肉屋、八百屋、魚屋、乾物屋には客が溢れる。
 いつもと変わらず、客の多くない(いや、少ない)小書店に座る私まで落ち着かない。
 そんなある日、G鮮魚店にマグロを買いに行った。新鮮で安い市場のマグロを買うと、スーパーのものはもう食べられない。
「夕方取りにくるね」と、G鮮魚店のおばあさんと約束して店番に戻る。小書店には冷蔵庫がないから、家に帰る直前まで鮮魚店で預かってもらうのだ。肉も豆腐も花もそれぞれの店で預かってもらう。
 夕方、マグロを取りにいくと、私の顔を見たおばあさんが言う。「明日買えー」
聞くと、私のマグロだということを忘れて他の客に売ってしまったらしい。年末で客も注文も多いのだから仕方がない。
 翌日、またマグロを買いに行った私。夕方まで預ける約束をして店を去る私におばあさんが大声で言った。「夕方ね。忘れんでよー!」
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
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2015©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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