2016213日 天気:晴れのち雨

 

『マリコ/マリキータ』

 研究のために訪れたグアムで出会ったマリコ。マリキータと呼ばれ、南の島で生き生きと暮らす彼女と過ごす短くも魅力的な日々。堅実に生きるぼくとマリコの恋は続くのか、それとも、、、
 
マリコ/マリキータ』を読み、遠い記憶の中からひとりの女性が細い煙のように立ちのぼってきた。
 マリエちゃん。昔の名前も聞いたことがあったのに忘れてしまった。それくらい、彼女と今の名前はぴったりだった。
 以前は男の人だったらしいが、わたしが出会ったときには形のよい綺麗な胸を持つ美しい女性だった。
 カタログ撮影のモデルをお願いしたときのこと。撮影しているうちにカメラマンが彼女に夢中になり、いつの間にか裸の写真ばかり撮っていた。洋服の撮影なのに洋服を着ていないなんて、とみんなで笑った。
 他人がいると大きな声でケラケラとよく笑って喋りすぎるくらいの彼女が、ふたりのときは小さな部屋ごと包み込むように優しく深い声で話した。本当はもの静かで騒がしいことも苦手だったんじゃないかと思う。それなのに、人が多くなればなるほど、それに比例してお酒をたくさん飲んで大袈裟にはしゃぐのだ。
 ふたりでいると、彼女は昔の恋人の話ばかりした。高校生のときから付き合っていたこと、たくさんデートしたこと、彼が有名になってからだんだん疎遠になったこと、彼の素晴らしい才能。
 その恋人をまだ好きなのだというのは鈍感なわたしにもわかる。こんなに美しい人を悲しませる男性はよほど冷たい人なのだろうと思ったりした。
「ねー、なにしてるのー?」
彼女からの電話は必ず夜だった。他愛もない話をして笑い合った電話のあとは、いつも寂しさと不安が残り、長い夜に取り残されたような気がした。
 
 いったいどの晩にどの話をしたのだろう。あれらの日々は記憶の中で混ざりあって、一つの大きな昼ともっと大きな夜になってしまったようで、それぞれの区別がつかない。その大きな暗い夜の中をぼくは気球のようにただよい、マリコもまた別の気球のようにただよい、それでも風はいつもこの二つを一緒にしておいてくれて、二つの気球は低い吐息や、きれぎれの言葉や、汗の匂いや、快感や、奇妙な会話を夜の間ずっと交わしつづけていた。―――『マリコ/マリキータ』より
 
 マリエちゃんのいた日々は、断片が溶けて、混交して大きな瞬間になっている。
 わたしと彼女を覆っていたのも大きな夜だった。大きな夜の中でお互いの手を伸ばして触れたり、お互いの耳に語り掛けたりしていたのだ。
 
 ぼくはマリコが変わることを、この三月、半年、一年の間にすっかり変わってしまうことを想像しておびえた。マリコは蓄積しない。周囲に応じてどんどん自分を変えてゆくことで生きているのだ。だから、どんな土地、どんな状況でも無意識のうちに巧みに適応し、その時々の自分にふさわしい仕事や友人や恋を得て、その力でまた自分を未来の方へ押し出してゆく。そういう結果として、あるいは中間報告として、ぼくがあの時にグアムで出会ったマリコ/マリキータがいた。彼女は変わる。ずっとそばで見ていないと、たちまち引き離されてしまう。そうなったらもう追いつけない。次に会う時は彼女はたぶんマリコである部分をいよいよ減らして、それだけマリキータになっているだろうとぼくは想像した。そこまでぼくの手が届くかどうか、不安だった。―――『マリコ/マリキータ』より
 
 女優として舞台にも立つマリエちゃんは頼まれると大きなお店のショータイムにも出演していた。その夜もショーに出演するのだと言った。アパートの窓からバイバイと見送った彼女の後ろ姿。華やかな舞台に立ってもさぞかし目立つのだろう。
 それが最後だった気がする。
 
 彼女の仕事が忙しくなったこと、わたしが東京を離れたことが疎遠になった理由だと思っていた。でも、違った。
 『マリコ/マリキータ』を読んでわかった。
「ぼく」が「マリキータ」を好きだったように、わたしも彼女が好きだった。
 彼女を知れば知るほど好きになったし、好きになるほど毎日は煌めいた。
 だけど、同時に美しいマリエちゃんの影は濃くなり、わたしの生活にどんどん広がっていく気がした。だから、彼女の手を離したのだ。
 もっとマリエちゃんを好きになると、もっと一緒にいると、わたしはわたしの人生を歩めないとわかっていたから。


 
(宮里 綾羽)
マリコ・マリキータ
池澤夏樹1990年 文芸春秋
 
配信申し込みはこちら
毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 市場での食い逃げ、いや、飲み逃げのはなし。ちなみに、犯人はわたしです。
 ある日、小書店に友人たちが訪ねてきた。
 店番を少し休んで市場のコーヒー屋「COFFEE potohoto」でコーヒーブレイク。
 店の前のスージグワァ―に並ぶベンチに三人で座り、美味しいコーヒーと楽しいおしゃべりを楽しんだ。
 翌日、友人から「昨日はコーヒーごちそうさま」とメールが送られてきた。そこで、自分がコーヒー代金を支払っていないことを思い出し、もうひとりの友人に連絡した。すると、もうひとりの友人も支払っていないと言う。
 気づかないうちに、私たちは飲み逃げをしていたのだ。
 potohotoへ急いで支払いに行くと、一緒におしゃべりを楽しんだ店主は「えっ?もらっていないの?」と戸惑っている。
 ごめんなさい、と三人分の代金を払って一件落着。
 そして、また先日、potohotoのカウンターでコーヒーを飲んでいると、ひとりのご婦人が申し訳なさそうに近づいてくる。
「ごめんなさい。わたし、昨日コーヒーの代金を払い忘れちゃって」
市場の客はたまに支払いを忘れることがある。でも、後日、ちゃんと支払いにくる。
 見えない信頼関係があるからだ、きっと。
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
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2015©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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