201748日 天気:晴れ

 

『キトラ・ボックス』

 ソウルの語学学校。同じクラスにウイグル自治区出身の青年がいた。高校を出たばかりの彼は物静かで教師やクラスメイトに話し掛けられても声が小さいから必ず聞き返される。それでも、ボソボソボソボソと聞こえづらいものだから、やがてみんな話し掛けるのを諦める。いつも教室のドアのすぐ近くに座り、休み時間には逃げるように外へ出ていく。クラスの食事会にも一度も来たことがなかった。弱気な笑顔がおぼろげに浮かぶ。ひょろひょろと細い体をやっと動かしている感じで、できるだけ存在を消そうとしているみたいだった。だから、『キトラ・ボックス』を読み終えた今の今まで、ずっと彼のことを忘れていた。名前を思い出したいけれど、どうしても思い出せない。
 ある日、自分の故郷について話す授業があった。みんな拙い韓国語で自分の故郷を紹介する。家族や文化、食事と生活について。
 教師が「ウイグルは中国ですよね?」と問うと、彼は力強く「アンデヨ!(違う)」と言った。殆ど聞いたことのない彼の声にびっくりして一斉にみんなが彼を見つめると、しまったという顔をして俯いてしまった。
 香港出身のティナが彼を見て大袈裟に肩をすくめる。クラスメイトのティナは父親が外交官として赴任していたイギリスで育ち、香港に大きな家がある。28歳には見えない可愛らしい顔つきでことあるごとに、わたしは買い物中毒なんだーと言ってはケタケタ笑う。確かに彼女はひどい浪費家だった。一緒に買い物へ行くとここからここまで全部買う!と店員を驚かせ、本当に全部買ってしまう。美容院とエステに毎週通っているから肌も髪もキラキラと輝き、真っ白な美しい歯でみんなに笑いかける。そのティナの顔がどんどん曇っていく。
「そうなの?では、あなたの故郷の話をしてください」教師が言うと、みんなよりも韓国語の上達が遅くて授業中の質問にも殆ど答えなかった彼が流暢な韓国語で言った。
「チョヌン イヤギアニラ コヤン ノレルル ハムニダ.(私は話ではなくて故郷の歌を歌います)」
 猫背で頼りない姿勢を正し、目を瞑って彼は歌いはじめた。こんなにも通る声を出すなんて。抑揚の少ない歌を伸びやかに歌う。遠くへ遠くへ届けるように。
 ゆったりと羊の群れを追い立てる男たちはお揃いのような小さな帽子を被ってふざけ合う。砂埃の舞う街角から現れた美しい少女はスカーフで口を覆う。大きな瞳が瞬きもせずにこちらを見ている。行ったことのないウイグルの風景が目の前に現れる。
 メロディがそうさせるのか、彼の表情のせいなのか、その歌には切なさや哀愁ではないもっと深い痛みがあった。それがなんなのかわからないけれど、彼の歌が終わってしまうのが悲しく、続いていくのも悲しいと思った。
 歌い終わった彼はクラスメイトから大きな拍手を受け、再び、しまった!と顔を伏せた。「すごい。歌がとても上手ですね」と教師やクラスメイトが彼を褒める。ティナだけが拍手もせず無表情なままだったけど。
 それから間もなくして彼は教室に姿を現さなくなった。彼がどうしているかたまに話題に上がったけれど彼の近況を知る人はいなくて、やがて、彼の話は出なくなった。
 
「こんなことを聞いていいのかどうかわからないけれど」と樺沢先生が言う、「今の新疆ウイグル自治区と北京の関係はどう?」
「むずかしいですね」と言って可敦さんはしばらく考えた。
「私個人は信仰はありませんが、私たちぜんたいはイスラム教徒です。人種から言っても漢族ではなく、西のタジギスタンやウズベキスタンの方にずっと近い。それでいて今の中国の自治区の中ではいちばん大きいし、資源が豊富で生活水準も高い。だから北京の政府ははっきり言えば離反を恐れていて、独立運動を徹底的に抑圧し、その一方で漢族の流入を促しています。もうそろそろウイグル族より漢族の方が多くなっているはずです。単純な多数決の民主主義では負けます」
「同じことを中国はチベットでもやっている」と堀田さんがつぶやいた。
「そうなんです」と言って可敦さんはまた考える。「ともかく、北京との間の緊張関係は続いています。過激な人もたくさんいます。この先どうなるか、私にはわかりません」
なんとなく雰囲気が暗くなった。―――『キトラ・ボックス』より
 
 新疆(しんきょう)ウイグル自治区から赴任している国立民族学博物館研究員の可敦(カトゥン)は考古学者藤波三次郎とともに奈良天川村、トルファン、瀬戸内海大三島(おおみしま)でそれぞれ見つかった禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)について調査を始める。しかし、ウイグルと西日本に同じ鏡があった謎を追い、大三島の大山祇(おおやまづみ)神社を訪れた二人を何者かが襲う。新疆ウイグル自治区分離独立運動を主導する可敦の兄への圧力のため、北京は彼女を狙っているのか?
 舞台は現代だけではなく、千三百年前の中国と日本、やがて壬申の乱に続く時空を超えた大きな物語になっていく。夢中になって読んだ『アトミック・ボックス』の主役・美汐をはじめ、三次郎や元公安警部補・行田の姿を見られるのも嬉しい。前回と同じく今回も、途方もない巨大なものに立ち向かうのは善良な市民の勇気と友情。
 
 わたしは同じ教室にウイグルの青年がいたというのに知ろうとしなかった。彼の歌を聴いて心が疼いたはずなのに。なのに、わたしは彼のことを知ろうとしなかった。彼のことも彼の名前も忘れていた。わたしは自分が恥ずかしい。新疆ウイグル自治区はずっとわたしの思考の外にあった。
 そして、ティナの表情。今ならば彼女がなぜあんなに冷たい顔をしていたのかがわかる。何の不自由もない贅沢な日々の影を見てしまったから。彼女の豪勢な生活を保つ裏で、どれだけの人の尊厳が奪われてきたか。それでも、彼女は彼から目を背けて贅沢な日々を続けていく。
 あの日、彼はどんな歌を歌ったのだろう。故郷の空だったのか、恋人を想う歌だったかもしれない。それとも、幸福な子供時代の記憶だろうか。
 今、彼にもう一度会って彼の故郷の話を聞いてみたい。あなたの歌は美しかったけれど、とても悲しく聴こえた。何を歌っていたの?あなたはどうして故郷を出てきたの?わたし、あなたと友達になりたい。名前を思い出せない彼のことを考えている。

 
(宮里 綾羽)
 
キトラ・ボックス
池澤夏樹著 2017年 角川書店
アトミックス・ボックス
池澤夏樹著 2014年 毎日新聞社
配信申し込みはこちら
毎月第2/第4土曜日配信予定

【本日の栄町市場】

 市場の総菜屋「ときちゃん」。昔は食堂をやっていたらしいが、それにしても手際がいい。娘さんと一緒に4畳くらいの店の小さなキッチンで次々と総菜をつくっていく。その種類の多いこと。煮物の出汁をチャンプルー(野菜炒め)の味付けに使ったり、揚げ物もまとめて揚げる。効率と手際の良さでときさんに敵う人なんているのかな?と娘さんに話すと、「でもね、これだけの種類を並べるんだから、仕込みは遅くまでやってるんだよー」そうか、そうだったのか。
 ファンが多くて、総菜はここでしか買わないと言う人もいる。常連さんのひとりが言う。「野菜を丁寧に洗って、出汁は鰹でとる。全部客から見えるところでやっているから安心するんだよねー」
 今日もときさん親子は美味しいものをどんどんつくり出していく。色鮮やかな総菜が並んでいくのを見ると心が躍る。ワクワク。ちなみに、わたしが好きなのはミートボール。店長が好きなのはアンダンスー(油味噌)。どちらも甘めの味付けでわたしたちの好きな味で嬉しい。
 あと、ときさんにお父さん(店長)に似ているさーと言われるんだけど、ときさんと娘さんのほうがそっくりだと思う。チームワークが素晴らしい市場の親子。
宮里綾羽
沖縄県那覇市生まれ。
多摩美術大学卒業。
2014年4月から宮里小書店の副店長となり、栄町市場に座る。
市場でたくましく生きる人たちにもまれながら、日々市場の住人として成長中。
ちなみに、宮里小書店の店員は店長と副店長。
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2017©Ayaha Miyazato, Takashi Ito






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