cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト

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001 カメラ・オブスクラ

 一昔前、1980年代にぼくはデザイン科の学生だった。いまの学生のように、すてきな外国のデザイン情報をインターネットで簡単に得られるような時代ではない。情報を得たいのなら、東京の洋書専門店に行って、デザイン書や雑誌を購入するしかないのだが、高価でなかなか手が出ない。
 当時、浜松町にある都立産業貿易ビルの上階で毎年12月に、東京中の洋書専門店が一同に介して古書を安売りする、洋書バーゲンセールが開催されていた。ぼくはそこに行くのがなによりの楽しみだった。
 「建築」「写真集」「グラフィックデザイン」「絵本」「インテリア」「乗り物」というようにジャンルごとに分けられた机の上に洋書がどっさり積まれていて、机の下に段ボールの空き箱がおかれていた。広い会場の中で誰もがおもいおもいにその箱の中に本を詰め込んでいく。迷っていると隣のひとに取られてしまうので、とにかくピンときたらなんでもどんどん詰め込んでいく。段ボール箱を蹴飛ばしながら、ひととおり本を集め終わったらみんな床にあぐらをかいて、戦利品を「これは絶対買う」「これは戻す」とより分けていく。時間がたってもう一度、それぞれの机を見直すと、さっきはなかったお目当ての本がまた戻ってきていたりする。そういうふうにして手に入れた本をいまでもだいじにしている。

 お気に入りの本を3つあげるとすると、『THE FOLD-OUT ATLAS OF THE HUMAN BODY』飛び出す人体解剖図の本、『WILD WHEELS』車好きのマニアックなひとたちが愛車をど派手に改造した本、『ontwerp: TOTAL DESIGN』オランダのデザイナー、ウィム・クロウエルがひきいるトータルデザインというデザイン事務所の仕事を紹介した1辺しか直角でない変形本の3つだ。なかでも「飛び出す人体解剖図の本」はもっともお気に入りで、同級生にいつも自慢していた。

 司馬遼太郎さんの『街道がゆく35 オランダ紀行』という本のなかにこういうことが書いてある。
 《江戸期という鎖国時代の日本は一個の暗箱であった。長崎の出島の蘭館が暗箱にあけられた針でついたようなただひとつの穴であった》。
 ぼくにとっての暗箱の一筋の光が、この洋書バーゲンセールだった。アマゾンで自由に洋書を手に入れられるひとにはわからないかもしれないけれど。大袈裟に言えばこの会場がぼくにとっての出島の蘭館だった。『THE FOLD-OUT ATLAS OF THE HUMAN BODY』は、ぼくにとっての『ターヘル・アナトミア』なのかもしれない。


 あるとき大学の写真の授業で、大辻清司先生にその人体解剖図の本をみせたことがある。どういう経緯で見せたのかはもう忘れてしまったけれど、先生はこうおっしゃった。「ぼくもその本がほしい」。とっても嬉しかった。先生がそんなことを言うとは夢にも思っていなかった。ぼくはもう一冊なんとか探し出して、先生にプレゼントしたいと思った。

<つづく>

守先正

62年兵庫県生まれ。筑波大学芸術専門学群卒業、筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了。花王株式会社(作成部)、筑波大学芸術学系助手、鈴木成一デザイン室を経て、96年モリサキデザイン設立,現在に至る。
池澤夏樹の著作では、『未来圏からの風』『この世界のぜんぶ』『異国の客』『セーヌの川辺』『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』などを手がける。
https://www.facebook.com/morisakidesign/